他人の失敗を責めるなんて、酷いことだ。
だから私は失敗を責めたりしない。
失敗を責める人は、弱い人だ。
失敗を責める姿勢は、改めるべきだ。
そう信じていた。
自分と、自分の周りの人が
この「責めない」を実現すれば、
幸せに安心して暮らせるのに、とも思っていた。
でも、違っていた。
失敗を責めないで欲しい、と伝えた。
先日私は立て続けにやらかした。
財布を落とした。
すぐに親切な方が拾ってくれて、
奇跡的に大事に至らずに済んだが、
夫からは「しっかりせえよ」と強めに言われた。
ホワイトデーに夫から貰ったお皿を割った。
子どもが落としたのだが、
夫は「手の届くところに置くから、
いつか割るやろうと思ったけど早かったな」と。
夫からの言葉にとても凹んだし、怒りも感じた。
それは、夫からの言葉が
言ったとて別段改善に役に立つでもないこと、
既に凹んでいる私の傷口をえぐるだけのこと、
としか思えなかったから。
そんな言葉をわざわざ言うのは、
私のことを何を言ってもいい相手だと
蔑んでいるからだ、と思った。
それで後日、夫に、
失敗を責めるようなことを言わないで欲しい。
と伝えた。
その時は「気を付けるよ。」「悪かったな。」
と言ってもらい、安心した。
5年前ならこれで終わったかもしれない。
「伝えられてよかった!」
「わかってもらえてよかった!」
という、心の話が好きな人あるあるの”美しい”収束。
でもここで終わらなかった。
責められたなんて思う必要が無かった。
次の日の朝、
夫から、
「俺なら言われても、根に持つことはない。」
「言われるだけのことをしたなと思うだけ。」
「(あなたは)考えすぎだ。」
と言われた。
確かに、そうだ。
苦しいけど、その通りだと思った。
失敗したのは事実で、
その責任が私自身にあることも事実だ。
私はその事実、そして
その事実から起きること
(なんしか言われることなど)を
受け容れたくない!と
ごねていただけだ。
なぜか。
私は失敗の指摘を人格否定と捉えていたからだ。
夫にそう言うと
「そんなことせんやろ」と。
私は、
失敗の指摘について、
- 言ったとて別段改善に役に立つでもないこと
- 既に凹んでいる私の傷口をえぐるだけのこと
- そんな言葉をわざわざ言うのは、私のことを何を言ってもいい相手だと蔑んでいるから
と思っていた。
夫は、
- 再発防止のため改善に役立つと思って
- 失敗は失敗
- 人格や存在を否定したくて言っているのではない
という上で発言していた。
私は、他人によって存在価値が決められる
と思うからこそ、
私にイヤなことを言うのは、
私を尊重していないから、
私の存在を許していないから、
とまで重くとらえる。
それで「責められた」と辛くなる。
でも夫は、
存在価値を認めているからこそ、
失敗の指摘は
失敗の指摘以上の意味を持たない。
だから普通に失敗を指摘するし
言われても「仕方ないな」と受け止められる。
辛いのは相手のせいじゃない。
夫の言葉が辛く、苦しかったのは、
夫に思いやりが欠けていたから
というより、
私が、自分の存在価値について
他人に依存していたからだ。
前提が変だから、不快な感情が湧きやすい。


失敗の指摘が、
私の捉えていたような重い意味ではないと、
冷静に言葉にしてもらえてよかった。
心を病みやすい人に向けて、
「世界は優しい」という発信は多い。
でもそれは
「優しい言葉しかない世界」ではなく、
厳しい言葉程度では
存在を否定し得ない世界、
存在がすでに認められているからこそ
厳しさも受容できる世界なのではと思う。
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