自分はずっと間違っていたんだな、
と自覚したので、
大事な人をちゃんと大事にする方法を
学ぼうと思って、
エーリッヒフロムの『愛するということ』を読んでみている。
そしたら、
愛に共通する基本要素の一つ、
「知」について、こう書いてあった。
たとえば相手が怒りを外にあらわしていなくとも、
エーリッヒ・フロム著 鈴木晶訳『愛するということ』
その人が怒っているのがわかる。
もっと深くその人を知れば、
その人が不安に駆られているとか、
心配しているとか、孤独だとか、
罪悪感にさいなまれているということがわかる。
そうすれば、
その人の怒りがもっと深いところにある
何かのあらわれだということがわかり、
その人のことを、怒っている人としてではなく、
不安に駆られ、狼狽している人、
つまり苦しんでいる人として見ることができるようになる。
弱さを理解しようと努力できるようになってきたのだが、
これもまた「愛する」ということの一環だったのだな、と
実践できていることが嬉しかった。
心理ブログを読み漁って
ちょっと知識がついてくると、
「察する」ことは【悪】のようにまで思っていた。
言われていないこと、
言葉にされていないことを
推測するのは【ダメなこと】
その割には
機嫌が悪そうだとか
機嫌を損ねそうだとかは
めちゃくちゃ推測してたな。
(妄想ともいう。)
「Why」の問題
私が今までにしていた「推測」は、
フロムの言うところの
「マゾヒズム」に由来するように思う。
共棲的結合の受動的な形は、服従の関係である。
エーリッヒ・フロム著 鈴木晶訳『愛するということ』
臨床用語を使えばマゾヒズムである。
マゾヒスティックな人は、耐えがたい孤立感・孤独感から逃れるために、自分に指図し、命令し、保護してくれる人物の一部になりきろうとする。
愛は能動的な活動であり、受動的な感情ではない。
エーリッヒ・フロム著 鈴木晶訳『愛するということ』
能動的に、
自分の意志を持って、
相手の幸せを思って
慮り、推測していたわけではなく、
相手に愛想を尽かされたくない、
という依存的な気持ちに
”駆り立てられて”いて、
受動的だった。
たとえば、強い不安と孤独感にさいなまれて休みなく仕事に駆り立てられる人もいれば、野心や金銭欲から仕事に没頭する人もいる。どちらの人も情熱の奴隷になっており、彼の活動は、能動的に見えてじつは「受動的」である。自分の意志ではなく、駆り立てられているのだから。
『愛するということ』エーリッヒ・フロム著 鈴木晶訳
心理ブログで「やめようね」と
よく書かれていたのはこの
受動的な推測(妄想)であって、
「慮るという行為」自体を捨てろということではなかったんだろう。
「何を(What)」じゃないんだな。
「なぜ(Why)」なのだな。
マイナスには何を掛け算してもマイナス
ナリ心理学の話にズレちゃうけど、
ナリ心理学の「ダイヤ値」ってすごい発明だなって思うのは、
自尊心が欠如している人のダイヤ値が、
ただ「低い」のではなくて
「マイナス値」に設定されているところ。
「自尊心が欠如している状態では
何をしても【マイナス】になる」
ことを端的に示せていると思うからだ。
※アドバイザーでも何でもない筆者の感想です
マイナスには何を掛け算してもマイナスになる。
マイナスの状態では
ビジネスも、
スピリチュアルも、
マイナスの結果にしかならない。
プラスに転じたければ【足し算】するしかなくて、
その足し算が、ナリ心理学でいうところの「ダイヤミング」なのだと思う。
※アドバイザーでも何でもない筆者の感想です
足し算は、地道で、めんどくさくて、時間がかかりそう。
掛け算は、苦しくなさそうで、一発逆転できそう。
マイナスの時は、今すぐ、楽になりたいから、掛け算したくなる。
マイナスの時、
自尊心が欠如している状態で、
掛け算を欲する「Why」は
「こんなはずじゃない」という現実逃避。
「そりゃ、こうなるわ。」の方が必要だ。
そりゃ、夫から理不尽に怒られもするわ。
そりゃ、子どもにイライラもするわ。
そりゃ、お金無くなるわ。
そりゃ、ビジネスも上手くいかんわ。
そりゃな。と認められたら
掛け算はできないとわかって、
自分から足し算していこうと思える。
愛することは、「時間がかかっても、自分がやるしかないんだな。」から始まる。
まだ最後まで読めていないのだけど
愛は「能動的」であることが繰り返し述べてあった。
ダイヤ値がマイナスの時、
自尊心が欠如している状態の時は、
自分の中の不安や恐怖に
”駆り立てられて”いる。
つまり、いつも「受動的」だ。
たとえば、強い不安と孤独感にさいなまれて休みなく仕事に駆り立てられる人もいれば、野心や金銭欲から仕事に没頭する人もいる。どちらの人も情熱の奴隷になっており、彼の活動は、能動的に見えてじつは「受動的」である。自分の意志ではなく、”駆り立てられて”いるのだから。
『愛するということ』エーリッヒ・フロム著 鈴木晶訳
そして不安や恐怖から
逃げたくて、”掛け算”したくなる。
一発逆転の一手、
ラクそうで、
なんか楽しそうな一手を
自分の”外側”に追い求める。
それでは、自分も、他人も、「愛する」ことはできない。
現状を、自分のせいだと認めたら、
掛け算なんかできないのがわかる。
地道で、めんどくさくて、時間がかかるけど、
自分で足し算していくしかない。
それでも、やろう。と思えたら、
はじめて「能動的」な行動ができて、
「愛する」ことに繋がるんじゃないかな。
私は自尊心が欠如している状態、
ダイヤ値マイナスで生きてきたから、
「この状態から抜け出したい」
という、現実逃避が出発点で、
なるはやで抜け出せる一手、
掛け算を欲して
沢山、お金と時間を使ってきた(捨ててきた)。
それらの”活動”は
不安や恐怖に駆り立てられているという点で
いつも受動的だった。
自分が他人よりマイナスにいるとも受け入れていなかったし、
マイナスじゃない人に強烈に憧れていた。
(ダイヤ値のもう一ついいところは、非ダイヤという点でもう”中の下”以下だと思い知らせてくれるところ笑)
※アドバイザーでも何でもない筆者の感想です
でも今、私はスタートがマイナスなんだな、と認めざるを得なくなって、
そりゃこういう現実だよな、というのも諦めがついてきた。
自分が悪かった、と現実を受け止めて、
原因である「私」による反応反射を辞める努力を始めた。
それは、”一発逆転”とは程遠くて
毎日、毎瞬の小さい改善で、
めんどくさくて、
忘れてしまったり、間違えたりする。
でも恐れに掻き立てられているのではなく
「私」を守るためでもなく
「私」を賢く見せるためでもない、
「私たち」を良くしたい、という気持ちからの、
能動的な行動になっているんじゃないかと思う。
これまでは、誰も愛せていなかった。
これから、愛する技術を習得していく。
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