感情とはそもそも勝手に感じるもので、どう感じても自由。

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先日のお客様のセリフで

「(周りの人からの何気ない言葉に) 
 プレッシャー勝手に感じたー」

というのがあって、




そのセリフには

【相手の意図しないニュアンスで
 受け取ってしまったことへの”罪悪感”】

があると思った。




でもその”罪悪感”って、要らない。


目次

そもそも感じることは【すべて】自分の勝手でしかない。

相手の本来意図していたニュアンスと、
自分が受け取ったニュアンスが
違う時というのは普通にある。



特に自分が

・いつも不安に潰されそうな状態で生きてる時、
・何か一つでも間違ったら
 人生終わるような深刻さで生きてる時

は、



いろんな言葉が

・自分を責めているように感じたり
・否定のように感じたり
・プレッシャーに感じたり

するのはしょうがないことだ。



言葉を発した人の意図が、

・責めてるつもりはなかった
・否定していたわけではない
・ただ応援したかった

のだとして、

【そのように受け取れなかった自分】
に罪があるわけじゃない。



受け取り方を正す必要は無い。


責められたと感じたなら、
責められたと感じたそのまま、

「どうして責められたと感じたのか?」
「なにをダメだと思ったのか?」

ただただ自分の言う通り、言い分を聞いてあげればいい。





ここで、

・いや、相手は責めるつもりはなかったのかもしれない
・わたしが深刻に受け止めすぎているのかもしれない

と、責められたと感じたことを打ち消すような、
あるいはフォローするような、

感じ方を変更しようとするような言葉で
自分を説得にかかってしまうと

「責められたと感じやすい」人生が続く。

どんな感覚感情を感じても「大丈夫」だと教えてくれている


わたしは2,3年前までずっと

・いや、相手は責めるつもりはなかったのかもしれない
・わたしが深刻に受け止めすぎているのかもしれない

と、責められたと感じたことを打ち消すような、
あるいはフォローするような、

感じ方を変更しようとするような言葉で
自分を説得

するのが癖だった。



それを辞めたことで初めて、

・いつも不安に潰されそうな状態で生きてる
・何か一つでも間違ったら
 人生終わるような深刻さで生きてる

状態から脱した。



正直、脱せると思っていなくて。笑



脱せるなら脱したかったし、
ただただ楽しそうに
のびのび生きている人が羨ましくはあったけど
今の自分の安定感、安心感は想像できなかった。



ただただ、自分を「説得」するのを辞めて、
感じるまま、湧くがままにして
そのまま言い分を聞く努力をした。



それで今、
「好きに生きて大丈夫なんだ」
という感覚が得られている。



そこからわたしが思うのは、

身体はいつも「大丈夫」と
教えようとしてくれていたんじゃないか。

そのために

被害妄想だの、
歪んだ見方だのを敢えてさせて、

ネガティブな、できれば避けたい感情を
敢えて湧かせていたんじゃないか。

ということだ。





苦しい感情を「回避」することしか知らなかったら、
失敗はできない。

間違えば、人生終わり、な感覚。




人を傷つけたら、自分が傷ついたら、
悲しませたら、悲しいことに直面したら、
怒らせたら、怒るようなことに直面したら、
嫌われたら、嫌いになったら、

もう終わり。「回避」できないと、終わる。





でも、「感じてみる」を繰り返したら、

・傷ついても生きていられること
・悲しんでもまた笑えること
・怒ってもまた普通に戻ること
・嫌いな部分と好きな部分は共存できること

が体感できる。

体感できると「回避」しなくても
【大丈夫】なのがわかる。

失敗できない人生じゃなくなる。




自分の感じ方を矯正しようとするのは
「大丈夫」を体得する機会を逸することになる。

勝手でいい。全部感じていい。

全ての感情は「勝手に」湧いてる。
相手の意図に関係なく。事実とも関係なく。


湧いたことに意味がある。
わたしに「大丈夫」を教えてくれようとしているから。

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