我慢は必要か公害か

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今日は通っている産婦人科で
「院長先生のお話し」なるものがあって
朝9時から出かけて行った。

妊娠生活の心得として
「我慢力をつけよう」
と言われた。

赤ちゃんのためにしたらいいことは
大抵自分自身にとっては”嫌な”ことだからと。

「我慢しよう」と思いたくなかった


ただ、私としては
「我慢は公害」
という価値観の方が馴染んでいるので

「赤ちゃんのためを思って我慢しよう」
とは思いたくなかった。



だからといって
院長のお話を全く採用する気がないわけではなく、
我慢というより

『めんどくさいことをめんどくさがらずにやるのだ』

と解釈した。




大人側としては
パンだけ、卵かけご飯だけ、みたいに
手軽にテキトーに済ませたいところを

赤ちゃんのために栄養ある食事を
用意して食べるということが
「嫌なこと」と表現されていて

嫌なことをやるから「我慢」だと。




でも赤ちゃんや自分の体調、
健康のためのことって
「嫌なこと」ではない。




嫌なことって
虫を素手で触るとか
寒い中立ってなきゃいけないとか

そういう『ただ辛いだけのこと』
を指すと思っていて

赤ちゃんや自分を思いやってすることは、
別に「嫌なこと」にはならない。




ただ、めんどくさいことではある。




自分や自分が大切にしたい人のためにかける手間は「我慢」ではない。
(”自己防衛”のためにかける手間は我慢だと思うが)

でも手間はあるので「めんどくさい」。

だから
「我慢力をつけよう」
というより
「めんどくさいを乗り越える力をつけよう」
という方がしっくりくる。


生きている「ベース」による


日常をごく当たり前に安心して
それこそただマイペースに生きているのであれば

「我慢しましょう」は
「ちょっと頑張ってみましょう」
程度の響きでしかないと思うが



日常的に不安に追われている場合に
「我慢しましょう」と
外から言われるのは拷問に近い。

普段からずっと我慢しているから。



これで我慢を増やしたところで、
不機嫌が増幅して
子どもの人生までも
日常的に不安に追われるよう仕立て上げてしまう。



ただ実際は
”日常的に不安”という人の方がおそらく少なくて

院長の言葉選びが合わないな、とは思ったが、
ニュアンス的には
「ちょっと頑張ろうね」程度なのだろう。



言葉選びがどう、というよりは
ベースの生き方が違えば
どんな言葉でも響き方が全く違うだけだ。


自分を追い詰める解釈はしなくていい

私はもともとは
日常的に不安に追われていたタイプで
何を選ぶにも何をするにも
一歩間違えば人生が破滅するような心地がしていた。


その名残があるから
「我慢力をつけよう」を
そのまま受け入れることができず、
上記のような面倒な解釈を挟むことにしたのだ。


ベースが不安だと
あらゆる言葉が自分を追い詰めるものになりがちだ。


でも実際は
「ちょっと頑張ってみよ!」程度の
軽い言葉と思っていいと思う。


追い詰められて苦しむべきということは絶対になくて
ふつーに安心してていいのが当たり前だから。

妊娠を忘れそう笑

だいぶ
「食べたいものでないと一切受け付けぬ・・・!」
という感覚は無くなっていて


胎動もまだ感じないので
ただ食欲が増しているだけのよう錯覚しそうになる。


お腹は前より格段に「太い」のだけど
太っただけみたいに見える。


今日の指導で
「1日1回は赤ちゃんのことを考える」
が宿題として出されて
確かにそうでもしないと忘れている。


エコーでうごうごしてる見ると
やっぱり毎回「いたのか!」「生きてたのか!」と驚く。


最近ルナルナも前ほど熱心に見なくなっていたから
またお腹の赤子に思いを馳せるようにしつつ
色んな食材を食べていこうと思う。

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