これを書いた後、
子どもへの対応も反省した。
やたらと脚に纏わりついてぐずる日があって
どうしてなんだろうと
いや、洗い物しないといけないんだって、
いや、さすがにご飯食べさせてよ、
とイライラしていたが
いつもの自分の態度が
子どもを寂しくさせているのかもと思った。
昼寝から起きられると
自分ひとりの時間が終わることにイライラして
ご飯もおむつ替えもお着替えも
お世話全部が
”めんどくさいけど、やらないといけないこと”
義務感で遂行していた。
可愛いねーって思うことは増えても
「子どもに”義務感”で関わっている」
ところが変わっていなかった。
私が非ダイヤでも、周りの人にはさほど影響がない。人生ふりかえると周りの人から影響受けたことはあっても、影響を与えてるとは思わない。
自分が非ダイヤなことが他人に関係あると思えない。
子供にイライラを言葉でぶつけることはしないようにしてた。
それが「影響」をさせないことだと思っていた。
だけど
そんなことは確かに”小手先”で
ほんとうに、
日々の態度が
「影響」してしまうんだと
やっと自覚が生まれてきた。
自分を辞めてみている
それで最近、
積極的に「自分」を辞めてみようとしている。
私は、「私」でなくてもいいんだよな。
と思ったのだ。
「私」と思っているものは、
ただの過去の集積だからだ。
その「私」であるがゆえに
頭に浮かぶこと
感じる気分
をすべて無視してみる。
頭に浮かぶことや、
気分に呑まれるとき
というか「不快」な時、
夫が不機嫌な”気がする”時、
夫のご機嫌に怯え始めた時
子へイライラが湧いてきた時、
辞めてみよう、とやってみる。
「私」を辞めてみると、
瞑想している時に近くなる。
ただ肉体があり
肉体の中に意識がある
肉体の外に現実がある
意識はあるが
「私」ではないので
感情の反応がなくなる
そうしていると
夫は「普通」だったりする
子どもは可愛く見えてくる
私が「私」だと思っていたものは、
全てが単なる「自己防衛反応」
「私」が”考えて”いたことは
殆どすべて
自分を守るためだけの言い訳
論破したいのは自分を守りたいから
ムカつくのも傷つきたくないから
できない、悪い、自分を認めたくないからだ。
自分責めと反省は対極にある
20代の頃は「自分責め」をよくしていた。
なんてだめなんだ、
消えてしまえばいいのに、
「普通」にできない私はいなくていい。
自分責めって、
「私のことは私自身で
ちゃんと責め立てていて
今十分に辛いので、
あなたは責めないでください」と
アピールしているだけだと思う。
自己防衛。
反省はしてない。
失敗とも認めていない。
改善のために考えもしない。
ただ、責めて、辛くなっているだけ。
自分を辞めよう、
とやってみられているのは、
・これまでの人生が失敗だったこと
・自分が悪かったのだということを
認めることだ出来てきたからだと思う。
自分責めするときは、
自分を責めてはいるが、
自分が悪かったとは認めていない。
(認めていれば、改善努力をするだろうが、
自分責めするときは責めるだけで何ら行動はしないから)
自分が悪かった、と
真に認めた時は、
自分を責める必要がない。
だって責められて当然だから。
自分で責めているからもう責めないでね、というアピールは要らない。
改善努力としての行動をするだけだ。
失敗の先に成功があるというが、
「失敗しないこと」自体も失敗(時間を捨てている)なので
「失敗した」と【認めること自体】が成功につながっているんじゃないかと思う。
起業を成功させるには
さっさと4回失敗すること
(成功率が20%らしいので)
と聞いた時、
「どこからどこまでを1回の失敗をみなすのかがわからない」といつも思っていたが、
それは1回の失敗の中にずっといたってことで
私はずーーーーっと”現在進行形”で失敗していて
失敗を認めていなかった。
これは失敗だった(過去形)、
と認めた時に、
初めて反省と改善ができる。
自分責めは、失敗の中にいる。
自分が悪かったと気づけた時は、失敗の次の場所にいるのだと思う。
失敗を自覚して改める
言葉に表さないだけでは
自分の自尊心欠損による悪影響をなくすことはできない。
「自分はただ存在していてもいい」と思えていなかった、
その過去の集大成である「私」は、
失敗である。
すべてが間違っていた。
だから今、
自尊心欠損していた過去の集積である「私」を捨てようと試みている。
という話でした。まとまったか・・・・?
コメント